ディフェンシヴ・リアリズム(後編)

ごぶさたしておりました、vassal_hiroです。いや、ここ最近は色々とありまして、忙しい(?)状況でした。というのは言い訳でありまして、単にサボっていただけなんですが・・・
ただいま、アパートから勤務先まで電車通勤している際に、年間契約した日経ビジネスを読んでいます。日々の(公開)情報は新聞などの報道が優れているのですが、ある程度まとまった情報を得ようとすると、雑誌にはかないません。ただし、体系だった情報は、報道・雑誌よりも書籍に優位性があるようです。というわけで、報道で気になったことをネットや雑誌でチェックし、さらに気になる場合は本に手を出すことがここ最近の情報の入手経路になるんでしょうか。と偉そうな(?)ことかいてますが、単に通勤時間が暇だからというだけですw




おもしろくもない雑談はさておき、前回はネオリアリズムを発展させたディフェンシヴ・リアリズムの特徴について書きました。そして、ディフェンシヴ・リアリズムがなぜネオリアリズムに比べて理論的に優れているのか論じました。べた褒めのようですが、ディフェンシヴ・リアリズムは欠陥をもっています。今回は、ディフェンシブ・リアリズムの欠点を含めた評価について書こうと思います。

前回はディフェンシヴ・リアリズムが何故優れているのかについて書きました。しかし、ディフェンシ・ヴリアリズムの理論の結論と論理構造に対して批判があります。まず、ディフェンシヴ・リアリズムの理論では、国際システムは攻撃的な国家に対してバランシングを働きかける抑制的なメカニズムがあるとされています。しかし、現実の国家で侵略に成功した事例は幾つかあります。例えば、ビスマルクが首相の時のドイツは侵略に成功しています。よって、ミアシャイマーが指摘するように、ディフェンシヴ・リアリストたちは、システムの抑制のメカニズムを過大評価しているのだといえます。穏健な国際環境を前提に置いていることは、ある種、自身の願望を理論の前提においているようなものだ、という批判すらあります。
論理構造に関する問題点は、ディフェンシヴ・リアリズムは国内政治だけで国家の対外行動を説明しようとする国内政治論(もしくはウォルツの批判する第一イメージあるいは第二イメージ論)と同様の論理展開をとっていることです。言い換えると、個人の脅威認識は、相対的なパワーによりある程度形作られるという事実が見落とされています。また、ザカリアが指摘するように、国民や官僚、あるいは個人のような内的な変数に焦点を当てた対外政策の理論は、国際的な環境が国家の選択の幅を形成するという前提条件があることを見えなくしてしまっているということです。
さらに、ディフェンシヴ・リアリストは国際システムを論理の出発点に設定しているのですが、国内政治と国際システムの相関関係に対する言及が見られないということです。つまり、国際システムと国内政治の分析が互いにどのように位置づけられるのか不透明であると考えられます。言い換えると、国際システムと国内政治の優先順位が不明瞭だということです。ディフェンシヴ・リアリストは、時にはウォルツのネオリアリズム、あるいは第二イメージ論を採用することで、場当たり的な議論を展開する傾向があります。よって、ディフェンシヴ・リアリストたちが国際システムの分析とは別の形で国内政治を加えるため、ディフェンシヴ・リアリズムは後付(ad hoc)の理論であると捉えられてしまうことは否定できない状況であります。


次回はオフェンシヴ・リアリズムについて書こうと思います。
では。