ネオクラシカル・リアリズム7

vassal_hiroです。昨日、デスクトップPCとモニタ、スピーカー、サウンドカードを購入して金欠です…(汗
PCは多分10日後くらいに届くので、それまでは旧式を使用する形になります。PCのついでにサウンドカードとモニタを別口で購入しました。モニタは1週間後に到着予定になっていたのですが、なぜか今朝方に届きましたw でかいです。なにせ23型ワイド(フルHD対応)モニタですので。旧式PCで使えるか仕様に無かったので、物は試しということで接続してみると認識してくれました。いまは新モニタを使用してますが、やっぱりでかいです。会社で使用しているモニタがおそらく21型ワイド、自宅モニタが17型ですので、新モニタはかなり大きく感じられます。


さてさて、雑談はさておき、ネオクラシカル・リアリズムの続きです。本日でネオクラシカル・リアリズムは終わりです。次回はこれまでのまとめを書いて、リアリズム論をひと段落させる予定です。



ネオクラシカル・リアリズムと個人
ウォルフォースの分析プロセス
ネオクラシカル・リアリストたちの中には、国内政治の要因ではなく、政策決定者に分析の焦点を当てるリアリストもいます。言い換えると、ウォルツの提唱したレベル分析のうち第一イメージを中心に対外政策を分析するリアリストということです。例えば、ウォルフォースの研究は、対外政策を説明するための要素として、個人認識の問題を取り入れています。

The Elusive Balance: Power and Perceptions During the Cold War (Cornell Studies in Security Affairs)

The Elusive Balance: Power and Perceptions During the Cold War (Cornell Studies in Security Affairs)

ウォルフォースのようなネオクラシカル・リアリストが導入した媒介変数は、政策決定者の認識だということですね。そして、国際システムの強制力(第三イメージ論)は対外政策を生み出す過程において必ずこの媒介変数によって間接的に変換されるのだということです。端的にいいますと、政策決定者が認識するパワー分布と、物質的なパワー分布が必ずしも一致しないというわけですね。


レインの分析プロセス
レインによると、1940年代以降におけるアメリカの域外覇権の追求は、国際政治のシステムのパワー分布と、アメリカの経済的な膨張、そしてイデオロギー(門戸開放、the open door)の3つの変数で説明できると主張しています。

The Peace of Illusions: American Grand Strategy from 1940 to the Present (Cornell Studies in Security Affairs)

The Peace of Illusions: American Grand Strategy from 1940 to the Present (Cornell Studies in Security Affairs)

そして、アメリカ外交史における門戸開放説を採用することで、政策決定者が如何にしてアメリカの国益を理解し、そしてそれらの国益に対してどのような脅威を認識していたかについて説明できると主張してます。つまり、レインも第一イメージ論をネオクラシカル・リアリズムにおける媒介変数として使用しています。
レインによると、アメリカの大戦略の目的は門戸開放された世界を創造することだそうです。そして、国際システムや世界秩序を開放し、アメリカの自由主義的価値観と制度を受け入れる状態にすることのようです。さらに言うならば、アメリカが経済的に参入できるように開放することにあるようです。このため、門戸開放された世界を支えるためには2つの要素が必要になってきます。第一に、経済的な門戸開放であり、国際経済システムを開かれた状態に維持することです。第二に、政治的な門戸開放であり、民主主義と自由主義を海外に拡大することです。この2つの要素は、政策決定者がアメリカ流の生活方式と呼ぶアメリカの中心的な価値観が海外で脅威に晒される、という認識と連関しているようです。このため、アメリカの大戦略は門戸開放による前提条件を基礎につくられているとのことです。具体的に言いますと、その前提条件とは政治的、経済的自由主義が海外において安全でなければ政治的、経済的自由は自国において繁栄しないということです。そして、結果的にアメリカの域外覇権の追求は、基本的に国内要素である門戸開放が原因となるのである、というのがレインの主張です。


ネオクラシカル・リアリズムのまとめ
ネオクラシカル・リアリズムでは、基本的に国際システムのパワー分布が独立変数です。そして、この独立変数を理論の従属変数である国家の対外政策へ翻訳する媒介変数こそが、国内政治あるいは個人の認識である、という論理になります。この論理構造はネオクラシカル・リアリストたちに共通する点です。
しかし、本章(?)で議論したように、媒介変数を如何に設定するのかは議論の分かれるところです。例えば、ザカリアは政府の力を、シュウェラーは国内の凝集力を媒介変数として設定してます。このように、ネオクラシカル・リアリストたちの変数の設定にはばらつきが見られます。ただし、彼らの媒介変数の違いは互いに排斥しあうものではないと考えられます。というのも、国内政治や個人の認識は数多くの要素によって構築されるからですね。つまり、ネオクラシカル・リアリストたちが挙げた媒介変数の要素は、数ある国内政治あるいは個人の要素のなかから、いくつか拾い上げたと考えられるからです。ということは、ネオクラシカル・リアリズムは媒介変数の選択次第で説明できる範囲や対象を変えることが可能になるという利点が存在するのではないかと思う次第です。


さて、次回はリアリズム論のまとめを書いてひと段落させます。
ではでは。